瀬見温泉
瀬見温泉街夜景
むかし、鎌倉時代のはじめ、兄頼朝から追われた源義経は、武蔵坊弁慶などのわずかな家来を従えて、北陸路を北に進み、鶴岡から清川に出て、舟で最上川をさかのぼり本合海に至り、ここから亀割峠を越して小国卿に入り堺田を経て陸奥国(岩手県)平泉に逃れたという。小国両川沿いの地域には、特に色濃く義経伝説が語り継がれ分布している。
瀬見温泉の名のおこりは、昔、兄と仲たがいになった義経が、山伏に身をやつした一行となり奥州平泉をさして落ちる途中、庄内から最上川をのぼり小国沿いに通るつもりであったが、一関(舟形町)という関所があると聞き、道をかえて休場を通り亀割山の山道にさしかかると、同行の北の方が急にお産をされて苦しまれた。
弁慶は急いで東の沢に下って水をさがすうちに湯煙を見つけて掘り出したのが、瀬見の湯であるといわれ、西側の山下に一行が休んだ所を休場(新庄)と名付け今なお判官神社を祀っている。
瀬見とは、山あいを流れる小国川の瀬を見てわたるからとか、弁慶が岩の湯を掘った薙刀が「せみ丸」というなであったからとか。
義経の子は亀割山にちなんで亀若丸と名付けられたが、ここは仇の国であるからとか一声も泣かなかったので泣かぬ蝉といったとか。その蝉が瀬見の字を後に当てたと伝えられる。
宿泊施設などはこちらから 最上町宿泊施設一覧
亀割峠と瀬見温泉
瀬見温泉 湯前神社
義経北の方が亀割山で生んだ子は男の子だったので、亀割の亀と万年の亀とにちなんで目出度いと「亀若丸」と名付けた。弁慶はうぶ湯をつかわそうと谷に水汲みに下りると、川辺の岩間にもうもうと霧のように湯煙の立ちこめているのをさがし当てて、喜び勇み太刀をふるい薙刀で岩を割り出湯を掘った。
それが瀬見温泉の始まりでその跡が今の薬研湯であるとか。亀若丸が枕にしたという子枕石、弁慶が手植えした弁慶杉が亀割山中にある。
義経一行が弁慶の案内で山を下りる時にじゃまになった道辺の松を引き抜いて投げたのが、瀬見に落ちて根付いたと言う弁慶の投げ松である。
また、弁慶の腰掛け石は、その時休まれたもので、北の方がお産をされた時、近くに水がないので弁慶がホラ貝で土をすくうと、そのくぼみに清水が沸いたと言う。そこに子安観音を祀ってあり(奥の院)、村人が参拝の折、その辺で子安貝という巻貝を拾ってきて、お産の時その貝で水を汲んで使うと安産まちがいなしのききめがあると信仰されている。
そこに石碑が立ち「義経北の方御産の跡、文治3年旧4月8日」と刻まれている。